わたしの実家は、
お盆という行事を一切しない家でした。
「我が家は「神道」を信仰してるので、仏教のイベントであるお盆はスルーなんだ」
という内容のことを父から言われて育ちました。
お葬式や法要のときもお線香を焚かずに護摩を焚きます。
神道ではお盆はやらないわけではないみたいで、
祭壇にお供物を供えたりするみたいですね。
おそらく、この手の行事に意義を見いだせない父の大義名分だったのでしょう。
我が家は先祖代々神道を信仰してるわけではなかったと聞かされています。
ご先祖様にお線香が嫌いな人がいて、
「わたしの葬式には線香は焚かないでほしいので、
我が家の信仰する宗教は、今日から神道にします。仏教はやめます」
と、宣言したと、子供の頃に聞かされました。
ずいぶん思い切ったご先祖様がいるんだなぁと、
子供の頃に面白いと思ったのでした。
その話は、江戸末期の話だったと聞かされたはず。
そんな昔話を聞かせてくれた祖母が亡くなって久しく、
大人になって、多少世の中の事柄を理解できるようになったのに、
確認する手立てをなくしてしまいました。
ご先祖様のまつわるものに、
我が家には「遺書」が残っていました。
その遺書は、わたしが子供の頃は箪笥に無造作にしまわれていたので
変な紙切れがあるなぁと、ひっぱりだして撫で回して同じところにしまっていました。
20年くらい前に、うちの父が、
「この遺書は、歴史的に価値があるから、
然るべきところで保管してもらおう」
と、言い出して、
どこかの歴史館に寄贈したという話をちらっと聞いたことあったのですが、
わたしが自分の実家とは疎遠になっているので
詳しいことを知りたいとも思わず記憶の彼方に置いてきていました。
ふと、あの遺書はどうなったんだろう?
と、思って、妹にきいてみたところ、
大津歴史博物館に寄贈したそうで、
HPに収蔵品として記載されていまいた。
慶応元年(1865)閏5月、膳所藩の首脳部(保守派)は、藩内の尊王攘夷派が、折から上洛途上、膳所城に宿泊予定の将軍徳川家茂を暗殺する計画をもっているとの嫌疑をかけ、一斉検挙に踏み切った。彼らは獄中で、墨や筆紙を与えられなかったことから、花紙をこより状にして文字を書き(貼り付け)、辞世の和歌や漢詩を詠んだ。短冊には、文字だけではなく、梅花などの絵も描かれており、和歌などの筆勢にはすさまじささえ、感じられる。同年11月21日には死罪の厳しい判決が下され、上級武士であった保田正経ら4名は切腹、高橋正功、高橋幸佑、増田正房7名の下級藩士が斬首に処せられた。この短冊には、正功、幸佑、正房の署名があり、上級武士とは別の牢獄に一緒に繋がれていたのだろう。
わたしのご先祖様は、謀反人として斬首刑になったということでした。
斬首と決まってから、牢獄で筆もない中で書かれた遺書だったと知って、
子供の頃に箪笥の中から引っ張り出して撫で回したことを反省いたしました。
斬首になったご先祖様の生きていた時代は
仏教やめた、神道にしますと信仰する宗教を改めた話の時代と一致するので、
このご先祖様が神道に改めた人なのかもしれません。
尊王攘夷派に属したご先祖様が神道に傾倒するのもなんとなく納得。
牢獄の中で、どんなことを考え、どんな決意をしたのだろうと思うと
150年以上昔のご先祖様を思って胸が苦しくなります。
宗教を改めたのは、
1868年の神仏分離令の時なのかもしれません。
もし、そうだとしたら、
残された家族になにか思うところがあったのでしょうね。
大津れきはくのHPに写真をアップしていただけたことは
大変うれしく思いました。
機会があったら、大津までもう一度見に行きたいと思いました。
実際に触ったことがあるわたしが覚えていることは、
新聞紙より遥かに固く厚い紙でした。
花紙とかかれていますが、便所紙だったと聞かされています。